ここでは、千葉県印西市と木下エリアの歴史上の事件簿を取り上げます。少し昔の事件を知っておけば、印西市の歴史も分かり関連する観光スポットに行く時間も有意義になるはず・・・。
さて、ある程度歴史に詳しい方であれば、ご存じかもしれませんが、千葉県内には、日本の歴史にかなり重要な影響を及ぼしたインシデント(出来事)が起きている地域があります。その一方で、印西市はその意味ではあまり名前の挙がらない地域かもしれません。
でも、実際には、印西市の過去の歴史を紐解くと、案外、事件も生じているんです。それを少し取り上げてみたいと思います。
目次
印西市の歴史!小林・光明寺の”子育て地蔵はなぜ万九郎地蔵に?由来の背後には事件が!
印西市小林には光明寺(こうみょうじ)というお寺があります。お寺好きな方であれば、観光で立ち寄ってみても良いと思います。
印西市小林の光明寺・基本情報
- 所在地: 千葉県 印西市 小林1841
- 交通アクセス: JR成田線小林駅から徒歩15分
- 駐車場: 6台分あり
- 電話番号: 0476-97-0115
- 創建された時期: 天正元年(1573年)
- 見どころ&ポイント: 天台宗の寺(通称:稲荷山普賢院光明寺)。境内の弥陀三尊下総板碑は印西市指定有形文化財。境内の美しい植木、盆栽は必見。
その境内にあるのが、通称”子育て地蔵”・万九郎地蔵です。もともと”子育て地蔵”と呼ばれていたのが、なぜ”万九郎地蔵”と呼ばれるようになったのか・・・
実はその背後には、ある事件がかかわっていました。
ときは、享保。旗本をつとめていた大久保万九郎という人物がいました。その叔父・斉次という人物は、行状が悪いことで知られていました。斉次は行状が悪かったため、香取郡の領分に預けられるも、ますます行状が悪くなりました。
千葉県印西市小林 光明寺の二十夜、二十三夜、二十六夜併刻塔 #月待ビンゴ #20 #23 #26 pic.twitter.com/4g7poQdDRg
— Takashi KOIKE (@tk01k) May 18, 2019
その事実が大久保万九郎の本家(江戸屋敷)に報告されました。
それを聞いた本家の大久保弥三郎と万九郎の両家が家来を遣わして斉次を捕えさせました。しかし、その捕り物で、本家の家来1名が斉次に切り付けられてケガを負い、斉次は即死しました。
この事件を知った本家は、事を穏便に済ませるため、斉次の遺体を光明寺の”子育て地蔵”のわきに葬りました。しかし、”子育て地蔵”は、いつしか”万九郎地蔵”と呼ばれるようになり、風邪に効果のある地蔵として信仰されるようになりました。
それにしても、今でいうところの内内で穏便に済ませるためにやむなくとった措置が、やがて”子育て地蔵”へと昇華するわけで歴史は興味深いですね。
ある意味、自業自得で命を落とした人が葬られた場所にあるお地蔵さんが、”風邪などに効果がある”とみなされるようになっていく点は、興味深いと思います。
印西市の歴史で見る!三宝院を有名にした2つの出来事!
門構えが美しい三宝院(さんぽういん)の基となったのが慈眼庵。しかし、やがて寺院化して、三宝院と名称を改めました。
印西市小林の光明寺・基本情報
- 所在地: 千葉県 印西市 竹袋141
- 交通アクセス: JR成田線木下駅から徒歩20分
- 電話番号: 0476-42-2582
- 三宝院として現在地に置かれた時期: 寛文年中(1661年~1663年)
- 見どころ&ポイント: 竹袋村(当時)の壇那寺⇒ 稲荷神社の別当寺となり”稲荷山神宮寺三宝院”と称された。境内に海の守護、商売繁昌、庶民救済の神様恵比寿が祀られており、”いんざい七福神めぐりの札所”。参拝時に打ち鳴らす鰐口は印西市の指定有形文化財。ほど近い場所に稲荷神社、熊野神社などがある。
三宝院を有名にした2つの出来事とは次の2つでした。
猟船に残された謎の遺体の事案
宝暦2年(1752年)6月、木下河岸にあった小さな猟船内で遺体が発見されました。
実況見分をし、所持品を改めたところ、取手宿・河内屋の質物の手形があったため、さっそく取手宿に連絡を取りました。しかし、「うちに泊まっていたことはないし、知らない」と対応を拒否されました。
やむなく、江戸に連絡し、江戸から取手宿に連絡してもらい、結果”無宿”扱いとなり、三宝院に埋葬されました。
無宿とは?
- 住む家が無いこと。やどなし。
- 戸籍が無いこと。無籍。
要するに”身元不明の遺体”として処理されたわけですね。ですので、どこのだれか・・・名前も分からないまま埋葬されたということになります。それにしても、”面倒なことにはかかわりたくない”という思いは、どの時代でも誰もが持つことが分かります^^
佐野恵左衛門の病死の事案
ときは、宝暦12年(1762年)3月23日に佐野恵左衛門という武士が印西市・木下から大舟津行きの乗合夜船に乗船しました。しかし、潮来に到着した際に、病死しているのが発見されます。
潮来で医師に見せるも死因が分からず、やむなくいったん、木下に戻ることに・・・。大森役所の判断で、佐野恵左衛門の所持品を改めたところ、鼻紙袋の中に”加藤帯刀家来”という書付を発見しました。
江戸に飛脚を送り、加藤帯刀に問い合わせたところ、「うちの家来に間違いない」との返答がありました。さっそく加藤帯刀の家来数名がやってきて遺体を確認しました。さらに、その立ち合いの元で三宝院に埋葬されました。
三宝院は、印西の歴史の中でこの2つの事案にからんで登場してきます。詳細が記録されていることから、当時は、大騒ぎになった事案だったと思われます。
また、三宝院が、当時の役人から頼まれて、そういった身元不明な死者を埋葬する役目を負っていたのも興味深いと思います。個人的に思う点ですが、三宝院は、緑の美しい時期に行くと雰囲気が良くてオススメです。
印西の歴史に残る!木下の大火
天保7年(1836年)11月28日、午前8時頃、木下で大火(火災)が発生しました。火元は、木下上町の忠右衛門宅。
風が強い日だったことから、瞬く間に、印西上町から下町まで燃え広がり、民家など64軒を焼き尽くしました。約5時間後にようやく下火となったものの、木下河岸の大半の家が焼失しました。
消火後、大森役所から役人が調査のためやってきて、焼けてしまった家を一軒一軒回って調査を行いました。
興味深いのが、当時、近隣の布川村(茨城県)、竜腹寺村、平岡村などから、金銭、麦、しょう油などのお見舞い品が届けられたのですが、その量や個数が事細かに記録されていること・・・。
参考例
- しょう油1本 味噌屋彦兵衛
出典元: 「利根川と木下河岸」
当時の印西の人々の間に助け合いの精神が息づいていたことが分かります。また、お見舞い品について事細かに記録されているあたりに、日本人の几帳面さという国民性が表れていると思います。
さらに、石作りが多い西洋の建物とは違い、古来の日本の民家の多くが木造だったことから、いったん火が付くと一気に延焼するというのは、やはり木造建造物の弱点だったといえますね。
印西・木下の歴史で切り離せない!洪水&堤防決壊!
印西史で切り離せないのが、しばしば発生した洪水。
昔から印西や利根町に住んでいる友人がいるので話を聞くと、「利根川の堤防が決壊して・・・」という時代の出来事の言い伝えを耳にすることがあります。
ちなみに、17~19世紀的な記録を見ると、関東では数えるだけでも50回以上の洪水が発生しており、印西エリアに甚大な被害をもたらした洪水もけっこう発生していたことが分かります。
とくに甚大な被害をもたらしたのが、宝永元年(1704年)、享保6年(1721年)、享保8年(1723年)、寛保2年(1742年)、宝暦7年(1757年)の洪水。
参考
- 宝永元年(1704年)の洪水: 布佐堤と笠神堤が決壊。9人の家が潰れた
- 享保6年(1721年)の洪水: 布佐堤と笠神堤が決壊。田畑が水没し作物がダメになる。
- 享保8年(1723年)の洪水: 木下の堤を越えて水があふれ、一帯が水没。
- 寛保2年(1742年)の洪水: とくに強烈なダメージを与えた。夏の台風で、堤を越えて水があふれ、木下河岸の家が潰れて流された。
- 宝暦7年(1757年)の洪水: 5月に大嵐が発生し洪水が起こる。それに伴い堤防が決壊。六軒新田などでは、洪水のため水深が深くなり2階に避難した人も多数。木下上町でも浸水し、2階に避難を余儀なくされた人がいた。
上記の洪水は、何も印西市のみが甚大な被害を被ったわけではなく、むしろ当時の江戸など、他の地域の方がより甚大な損害を受けたことも多々あります。
しかし、(今の)印西エリアでも、堤防(堤)が決壊する被害を受けたことは何度もあったことは事実で、その都度、かなりの経済的なダメージを受けました。
ちなみに、今でこそ、利根川のいたるところにスーパー堤防が作られています。しかし、印西市の木下付近は、利根川のカーブにあたっていることや、かなり以前から街があったこと、利根川の支流などにも船が停泊できるなどの条件が重なり、スーパー堤防は作られてはいません。
沈む太陽。
印西市利根川水郷周辺。 pic.twitter.com/2TNU2QCYac
— 黒ナンバー栗原葛飾 (@milkdaigo1) February 26, 2014
しかしながら、堤防を高くし、河川敷を広げることで洪水対策が取られています。
今でこそ、利根川の堤防が決壊して洪水を経験するようなことはほぼなくなりましたが、過去の歴史を見ると何度も甚大な被害を被っていたことが分かります。
そのような歴史を理解した上で、利根川や木下エリアなどの周辺地域を見てみると先人たちの苦労が何となく分ったりするかもしれません^^
印西(木下)の歴史の事件簿&関連する観光スポット! ~まとめ
ここでは、印西市と木下エリアの過去の歴史の事件簿と関連する観光スポットを紹介しました。
ポイント
- 印西市の歴史!小林・光明寺の”子育て地蔵はなぜ万九郎地蔵に?由来の背後には事件が!
- 印西市の歴史!三宝院を有名にした2つの出来事!
- 印西の歴史に残る!木下の大火
- 印西の歴史で切り離せない!洪水&堤防決壊!
今では人口が10万人を超えた印西市も、かつては町もなく、”村の集合体”でした。
利根川に面していることから、豊かな水源に恵まれている反面、洪水によって川が氾濫し、堤防が決壊するという辛い過去がありました。しかし、村同士の住民が助け合いつつ、その困難を何度も乗り越えてきたことが分かります。
印西市内にさりげなくたたずむ、お地蔵さんや寺や寺院などは、その時代を見てきた証人といえるかもしれませんね。